目次
はじめに:なぜ修行の話をするのか
皆様、こんにちは。蓮城院副住職のコウブンです。本日も私の修行時代のお話の続きをさせていただきます。
実は、この修行時代の話をしている理由があるんです。最近話題の生成系AI、Claude 3.5を愛用しているのですが、このAIに私の過去の放送内容を解析してもらったところ、思い出話や過去の経験を話すのが一番人気があるとアドバイスをもらいました。そこで、素直にクロさん(Claudeの愛称)の言葉に従って、これらの思い出をお話ししているわけです。
AIの助言を取り入れるのは少し奇妙に感じるかもしれませんが、私はテクノロジーと伝統の融合に興味があります。お寺の伝統を守りつつ、現代の技術を活用することで、より多くの方々に仏教の教えを伝えられると考えているのです。
永平寺での生活:修行の基本
永平寺での修行生活は、一般の方々が想像するよりもはるかに厳しいものです。朝は3時半起床、夜は9時就寝という生活リズムが基本です。日中は坐禅、読経、作務(さむ:寺院での労働)など、さまざまな修行に励みます。
朝食は「粥」と呼ばれるお粥のようなものが中心で、栄養はあるものの決して豪華とは言えません。これは「少欲知足」(しょうよくちそく:欲を少なくし、足ることを知る)という仏教の教えを体現するためです。
同期との絆:4人の仲間たち
私と同じ日に修行に入った6人のうち、2人が脱落してしまい、4人になりました。この4人とは最も苦しい時間を共に過ごすので、とても絆が深くなります。しかし、このメンバーがなかなか個性的で、私なりに大変な経験となりました。
例えば、一人は高学歴の青年で、ある分野では物事を論理的に考えることができ大変優秀なのですが、大概は大雑把で不器用なので、先輩方からよく叱られていました。もう一人は極端に物忘れが多く、それでいてプライドが高いので、注意されても素直に聞くことができず、いつもトラブルメーカーでした。
このような個性豊かなメンバーと共に生活することで、私は「和合」の大切さを学びました。互いの違いを認め合い、協力して修行に励むことの重要性を身をもって体験したのです。
応量器との格闘:お坊さんの食器事情
修行中、最も大変だったのが「応量器」と呼ばれるお坊さんが使う特殊な食器の使い方です。これは、ロシアの有名なおもちゃ、マトリョーシカのように入れ子になった4つの器で構成されています。この応量器の使い方には細かな作法があり、袱紗(ふくさ)に包まれた状態から、下敷きを敷き、器を一つずつ出して並べるまで、全てが決められた順序で行われます。
同期の4人のうち、私ともう1人はそれなりにできましたが(私は経験済みで予習もしてきたので、ほぼ難なくこなせました)、残りの2人がなかなか覚えられず、指導に時間がかかりました。先輩の指導が永遠と続き、私も助言したいのを我慢するのが大変でした。
この経験を通じて、「形」の重要性を学びました。一見無意味に見える細かな作法も、実は心を整え、食事に対する感謝の気持ちを表現する大切な手段なのです。
朝の振鈴役:3時半起きの理由
修行中の思い出深い役割の一つが「振鈴」です。これは朝3時半に大きな鈴を鳴らしてみんなを起こす役割です。最初は坐禅堂内で鈴を鳴らし、その後お寺中を走り回って他の場所で寝ている人たちも起こします。
永平寺は広大で複雑な構造のため、ルートを覚えるのに苦労しました。暗い中を走り回るので、どこを走ったか全く分からなくなることもあります。昼間に確認したいと思っても、永平寺のルールで勝手に歩き回ることは禁止されています。
私が最初に任されたのは「上回り」でした。途中で道を間違え、どこに行けばいいか分からなくなってしまいました。なんとか戻ってきましたが、遅れたために怒られてしまいました。予習することを許されないのに間違えるなという、ある意味理不尽な状況でしたが、これも修行の一環なのです。
この経験から、「準備」の大切さを学びました。事前に想像し、心の中でルートを描いておくことの重要性を身をもって感じたのです。
修行の厳しさと学び:日々の気づき
修行生活は厳しいものでしたが、同時に多くの学びがありました。例えば、「坐禅」の時間では、自分自身と向き合うことの難しさと大切さを学びました。また、「作務」では、日常の些細な作業にも意味があることを知りました。掃除や食事の準備など、全ての行為が修行の一環なのです。
特に印象に残っているのは、修行僧が自ら進んで寺院内をきれいに保つ行いです。誰かに言われるのではなく、自分で気づいてゴミを拾ったり、空いている扉をきっちり閉めたり、そうすることで永平寺内はいつもきれいであり、同事に修行僧の心もきれいになるのです。
これらの経験を通じて、「行い」の大切さと「今ここ」に集中することの重要性を深く理解しました。過去や未来に囚われず、目の前のことに全力を尽くす。これは、修行後の日常生活でも大いに役立つ教訓となりました。
700キロの徒歩帰宅:修行の締めくくり
1年間の修行を終え、締めくくりとして永平寺から栃木県の私のお寺、蓮城院まで歩いて帰ることにしました。距離にして約700キロ、24日間かけての大旅行です。毎年80人ほどの修行僧が入れ替わりますが、そのうち3人ほどが歩いて帰るそうで、私もその1人となりました。
この決断には深い意味がありました。歩いて帰ることで、修行で学んだことを深く反芻し、これからの人生にどう活かすかを考える時間にしたかったのです。また、先人たちの足跡を辿ることで、仏教の歴史と伝統を肌で感じたいという思いもありました。
旅の装束:お坊さんの特別な旅支度
どんな格好で帰ったかというと、まず頭には網代笠という傘のようなものをかぶりました。髪の毛は剃っていたので、直接かぶるとすりむいてしまうため、タオルを巻いてからかぶります。この網代笠は単なる日よけ・雨よけではなく、「世俗の目」から身を守る象徴的な意味もあるのです。
衣服は托鉢衣を着ておりました。これは通常の僧衣を簡略化したもので、歩きやすくなっています。腕には手甲(てっこう)、足には脚絆(きゃはん)をつけ、足元は地下足袋を履きました。手には錫杖(しゃくじょう)という、シャリンシャリンと音の鳴る杖を持ちました。
このような格好で歩くのはもちろん初めてでした。最初の頃は錫杖などもたなくても良かったなと後悔していたのですが、歩ってみて気がついたことがあります。錫杖は、音が人々に僧侶の訪れを知らせる役割と同事に、山道では体を支えたり、動物などを追い払う意味があるのだと感じたのです。体験してみると色々なことに気がつく。とても良い学びでした。
宿泊事情:お寺とホテルの使い分け
3週間の旅の間、宿泊をどうしたかというと、主に道中にある曹洞宗のお寺に頼んで泊めてもらいました。だいたい7割くらいの確率で泊めてもらえましたが、3割くらいは断られることもありました。断られた時は仕方なく、お金を出してホテルに泊まりました。
お寺に泊まる際は、必ず朝の勤行に参加させていただきました。これは、お寺に泊めていただく御礼の意味もありますが、同時に自分自身の修行の継続という意味もあります。
同じ修行仲間のお寺や、学生時代の友人宅に泊まることもありました。当時はまだインバウンド観光客が少なかったので、ホテルも当日予約で泊まれることが多かったです。
この経験を通じて、「頼ること」の大切さを学びました。自力だけでなく、他力(たりき)の重要性を身をもって感じたのです。
道中の出来事:心に残る思い出
700キロの道中では、様々な出来事がありました。例えば、ある日の夕方、疲れ果ててベンチで休憩していると、近くのおそば屋さんから「お茶でもいかがですか?」という申し出がありました。私はありがたくお茶を頂き、その後の旅の行程を考えていると、今度は「おそばでも食べて力をつけて下さい!」とおそばを施して頂いたのです。さらに、その日の宿泊先のお寺を探して下さり、おそば屋さんの親切に深く感動し、人々の温かさを改めて感じました。
また、ある町では地元の子供たちが興味津々で話しかけてきました。「お坊さんはなぜ頭を丸めているの?」「その杖は何のため?」など、素朴な質問に答えながら、仏教の教えを分かりやすく伝える難しさと大切さを実感しました。
これらの経験を通じて、「つながり」の重要性を学びました。私たちは皆、見知らぬ人々との縁によって生かされているのだと強く感じたのです。
無事帰宅:24日間の旅を終えて
ついに24日間の旅を終え、私のお寺に到着しました。妻と両親が待っていてくれて、帰宅の記念写真を撮りました。長い修行と帰り道を経て、ようやく家に戻ってきた瞬間でした。
この瞬間、これまでの修行と旅の全てが走馬灯のように脳裏をよぎりました。永平寺での厳しい修行、700キロの道のりで出会った人々、そして自分自身との対話。全てが一つになって、大きな達成感と共に深い感謝の念が湧き上がってきました。
家族との再会は、言葉では表現しきれないほど感動的でした。特に妻の顔を見たとき、彼女の支えがあってこそ、この長い旅を完遂できたのだと強く実感しました。家族の大切さ、そして「縁」の深さを改めて感じた瞬間でした。
おわりに:修行の意義と現代社会への示唆
この修行と700キロの徒歩の旅を通じて、私は多くのことを学び、気づきを得ました。これらの経験は、単に個人的な成長にとどまらず、現代社会に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれると考えています。
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「今ここ」に集中する大切さ 修行中、特に座禅や作務の時間に徹底的に叩き込まれたのは、目の前のことに全神経を集中することの重要性です。現代社会では、スマートフォンやSNSの普及により、常に他のことに気を取られがちです。しかし、「今ここ」に意識を向けることで、生産性が上がり、より充実した人生を送れるのではないでしょうか。
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「形」から入る修行の意味 応量器の使い方や、様々な儀式の作法など、修行では「形」を重視します。一見無駄に見えるこれらの「形」も、実は深い意味があります。形に従うこと、すなわち身を調えることで、自然と心も調い、安らかな時を過ごすことが出来るのです。現代社会でも、例えば仕事の前に机を整理する、家に帰ったら手を洗うなど、「形」から入ることで、心の準備ができ、よりよいパフォーマンスにつながるかもしれません。
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「つながり」の大切さ 700キロの旅で最も印象に残ったのは、道中で出会った人々の温かさです。見知らぬ土地でも、多くの方に助けられ、支えられました。現代社会では、デジタル化が進み、直接的な人とのつながりが希薄になりがちです。しかし、人と人とのリアルなつながりこそが、私たちの人生を豊かにする大きな要素なのではないでしょうか。
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「自利利他」の精神 仏教の重要な教えの一つに「自利利他」(じりりた)があります。これは、自分自身を高めると同時に、他者のためにも尽くすという考え方です。修行中も、自分の成長だけでなく、周りの仲間と協力し、助け合うことの大切さを学びました。現代社会においても、自己実現と社会貢献のバランスを取ることが、真の幸福につながるのではないでしょうか。
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「無常」「無我」を受け入れる心 修行生活や長い旅の中で、計画通りにいかないことも多々ありました。そんな時に支えになったのが「諸行無常」と「諸法無我」の教えです。全てのものは変化し、永遠に続くものはない、そして全ては関係性の中で現れるという考え方です。この考えを受け入れることで、予期せぬ出来事にも柔軟に対応できるようになります。変化の激しい現代社会においても、この「無常」「無我」の心構えは大いに役立つのではないでしょうか。
これらの学びは、決して特別なものではありません。日常生活の中で、少しずつ実践していくことができるものばかりです。皆様も、日々の生活の中で、これらの教えを意識してみてはいかがでしょうか。きっと、新たな気づきや豊かさが生まれるはずです。
最後になりましたが、この話を通じて、お坊さんの修行の一端を知っていただければ幸いです。単にお経を読むだけでなく、このような厳しい修行を通じて、私たちお坊さんは日々、自己を磨き、社会に貢献する道を模索しているのです。
皆様、いかがでしたでしょうか。感想やご意見、お悩み相談などがありましたら、ぜひコメントやメッセージでお寄せください。皆様からのメッセージをお待ちしております。
今回の話が、皆様の人生に少しでも良い影響を与えることができれば、これ以上の喜びはありません。
蓮城院副住職のコウブンでした。ではまた次回、お会いしましょう。合掌。
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