蓮城院について
蓮城院は、栃木県真岡市物井(旧芳賀郡二宮町)にある曹洞宗の寺院です。 二宮尊徳翁の菩提寺であった縁により、境内墓地には桜町領主・宇津家、二宮家、 門人の横山家・吉良家の墓が並び、尊徳が自ら建立した霊廟には各家の位牌が 今も安置されています。
蓮城院の創立
蓮城院の創建は寛永年間(1624〜44年)と伝えられ、二宮尊徳がこの地に赴任するおよそ 二百年前にさかのぼります。はじめ物井村峯高の地にあり、のちに物井村桜町字仲宮 (現在地)へ移りました。稲葉家、大久保家、宇津家と続く歴代領主の位牌を安置する 菩提寺として保護を受け、田畑や年貢による寺録も少なくなかったといいます。 しかし宇津領の農村が疲弊するとともに寺も維持が難しくなり、やがて住職のいない 荒れ寺となりました。
二宮尊徳による再興
文政5年(1822年)、二宮尊徳は桜町仕法と呼ばれる農村復興事業のため、桜町陣屋に 赴任しました。荒廃した蓮城院の窮状を知った尊徳は早くから再興を志しますが、 本寺である久下田・芳全寺との金銭上の行き違いから当初の計画は実現せず、屋根や 建具の応急的な修理にとどまりました。
それでも尊徳は蓮城院を見捨てませんでした。文政9年(1826年)には、正月と盆に 村役人・陣屋詰役人が蓮城院の位牌所へ参拝することを定め、この慣行は尊徳が真岡や 日光へ移った後も数十年にわたり守られました。陣屋日記には多くの参拝記録が残り、 文政10年の正月には尊徳自身が参拝した記録も見えます。
その後も再興の試みは幾度か持ち上がりましたが、檀家を持たず収入のない寺を 再建しても維持できないという懸念から、尊徳は二十年以上、再興に踏み切ることが できずにいました。転機となったのは嘉永年間の初め、寺の屋根がついに崩れ落ち、 位牌が雨ざらしになるという事態でした。位牌は一時、東沼の観音寺(天台宗)へ 移され、宇津家からも再建を求める声が強く上がります。
嘉永2年(1849年)4月、尊徳は「蓮城院過去帳」と題する帳簿を自ら作り、寺に 納めました。通常の埋葬者名簿ではなく、小田原藩主大久保家や宇津家歴代、自身の 一族、桜町仕法に関わった人々など、尊徳が自ら供養したいと願った人々の法名を まとめたもので、公の決定に先立って、尊徳の再興の決意がすでに固まっていたことを 物語ります。
嘉永3年(1850年)、再興計画が正式に定まりました。蓮城院を宇津家代々の菩提所と するとともに、桜町仕法のなかで絶えた二百余軒の無縁仏を弔う寺として村ぐるみで 守ること。陣屋に近い土地へ移して再建すること。山林の売却益など三百両を永続の 基金とすること。新たに境内地を開いて本堂と位牌所を建てること。同年8月22日には 尊徳自らが息子・弥太郎らとともに陣頭に立ち、地所の選定から工事が始まりました。
普請は嘉永5年(1852年)6月に上棟を迎えます。翌嘉永6年(1853年)、日光神領 復興のため日光に赴任していた尊徳は、嫁いで間もない娘・文子を産後の病で 失いました。文子は尊徳の指示により、まだ普請の続く蓮城院に葬られています (文子と桜町・蓮城院の縁については「二宮金次郎の墓」の ページで詳しくご紹介しています)。尊徳自身もこのころ過労から病を得ますが、 病床にあってもなお駕籠で普請の現場を幾度も訪れたことが陣屋日記に記されています。
安政2年(1855年)3月5日、五年がかりの普請がついに完成しました。以後の仕法は 息子・弥太郎に委ねられたため、この蓮城院の再建は、尊徳が桜町・真岡の地で 自ら手がけた事実上最後の事業となりました。
今に伝わるもの
境内墓地には、領主宇津家、尊徳の娘・文子の墓、門人の横山家・吉良家の墓が並び、 尊徳の建てた霊廟には各家の位牌が今も安置されています。文子の墓のかたわらには、 門人・横山平太が師を偲んで捧げた尊徳の遺髪も納められています。荒れ寺の再興に 二十年余りの歳月をかけた尊徳の歩みは、この小さな寺に静かに受け継がれています。
本ページの記述は、蓮城院十七世住職・荒木光胤『二宮尊徳と桜町』(昭和61年)に よります。